禁煙日記12

禁煙日記13

この日記を書き始めて、何人かの方から、応援の声を頂いている。また、私の文章を読んで禁煙に踏み切った方が二人いらっしゃる。書き続ける必要がありそうだと勝手に判断して、書き続けます。酒煙草をやらずして、重篤な病におかされる方も世の中にいらっしゃることを重々承知の上で書きます。とにかく、書いている間、ピアノを弾いている間は喫煙のことを忘れられる。

 

だが、今日の私は動けない。昨日長く泳ぎすぎたのか、副作用なのか、睡眠不足で朝から眠く、プールにも行けず、頭の中がぐるぐるする。過去に起きた様々な出来事、思い出が、何の脈絡もなく意識に去来し、そしてそれがすーっと消えると、また別の思い出や過去の出来事が、意識の中にランダムに浮かび上がってくる。その思い出や出来事の、嬉しかったこと、悲しかったことに関係なく浮かび上がってくること自体が、不思議と一番タチの悪いところで、なぜならば、悲しんでよいのか、喜んでよいのか、どういう感情でその「ぐるぐる」を受け止めれば自己を保てるのかが分からないのである。笑いながら泣く人は見たことはあるが、そういう顔の表情にでるような感情でもない。これでは練習に支障をきたすのだが、今は禁煙することの方が専決事項なので、じっと自分を客観視する。直感、五感とも更に冴え渡ってきているのだから、ここで禁煙を止めるわけにはいかない。

 

実際に、過日ブタ肉を食べたが、ブタ肉は豚の死肉であることのよく分かる芳香を放っていることを再認識した。なぜ死肉と芳香いう対語を選んだのかというと、死肉と分かりつつ、とても「旨かった」からだ。人間は酷な存在だ。だが旨いものは旨い。それほど私の味覚は敏感になってきている。視覚もそうである。読書が更に新鮮身を帯びてきた。文字から浮かび上がる情感、その人が書いた時の気持ちまで読み取れるようになってきた。臭覚も動物並みにするどくなっている。電車に乗っていると、隣の人の昼食が何だったか大体分かりそうなくらい、体臭に対して過敏となった。そして大切な聴覚、今は更に、オーケストラの内声まで細部に耳をそばだてることができる。畢竟私が自ら弾くピアノの音、ハンマーが弦を鳴らす瞬間までもが、細部まで、更に聞きわけられるようになってきた。

 

直感も冴えてきた。渋谷の街に出ると、全く違う世界に居るように感じられる。喫煙していたときにはイライラとした人ごみも、客観視できるようになった。と同時にこの人ごみ全ての人々が、私を含めて、我々人間の原初の所作、つまり「まぐわい」にて生まれ出てきたのかと思うと、この浮世も不思議な場所であるとつくづく思う。日本人は少なくとも一億二千七百万回の「まぐわい」をしたことになる。ものすごいことだ。これら全ての人々が真の意味で愛の結晶であれと祈りたくなる。

  

だが浮世はそれだけでは済まされない、人間の三大欲を満足させようとチカチカする電子画像、ネオンや看板、元はといえば、全て地球の資源で人間が材料を作りこしらえたもので、これを文化文明というのなら、なんという無駄使いだろう。しかし私もその無駄な文化の中の、微細な部分にかろうじて属している存在である。文化は余剰から生まれる。このように、禁煙により全ての事象の捉え方が変化をしてきており、その変化についていけない自分自身がいる。自分が自分を追いかけているとはこれいかに。

 

身をもてあましていたら、再度妻が救いの手をさしのべてくれた。渋谷文化村にて「イングリッド・バーグマン、愛に生きた女優」を観に行くという。家にいてもなにもはかどりそうもないので、再度妻に同行することにした。

 

イングリッド・バーグマン、私が高校生の時、始めて観た彼女の映画以来、魂の部分から惚れ込んでいる永久のアイドルである。あの品位は誰も及ばない。出演作もほぼ全て観ている。映画上映に合わせ、写真展も開催されていた。どの写真も息を呑むほど美しい。写真の下に説明書きがあり、スウエーデンの幼少期、二歳で母親をなくし、十三歳で父親を亡くし、彼女を引き取った叔母もなくなっている事を始めて知る。美貌の影に孤独があったのだ。あの女優としてのスジの通し方もこの生い立ちと関係があるはずだ。彼女をアメリカに呼んだセルズニックという演出家兼プロデゥーサーは、商業的成功のため、名を改め、少し顔を整形することを考えていたことも知る。恐ろしきなりアメリカ芸能界。バーグマンの美貌にさえ、手を入れるつもりだったとは。

 

カサブランカ撮影時、ハンフリー・ボガードは、バーグマンより五センチ背が低く、有名な最期の別れのシーンで、ボギーは木箱に乗った状態で撮影されたことも知った。まぬけな話である。あのボギーがバーグマンの前で木箱の上に立っていたとは。私は一時、ボギーの煙草の吸い方を真似ていたのだ。カサブランカを何回も観過ぎて自然と真似るようになった。似ないと知るのに時間はかからなかったが、あの男の象徴であるボギーを、体格でかしずかせたバーグマン。これも実力のうちだ。あとは誰もがご存知の、ロッセリーニの一件でハリウッドから干されるのだが、上院議会でもバーグマンの私生活が非難されたのもこの写真展で始めて知った。ただの芸能スキャンダルではない。そしてロッセリーニとの生活も終わりを迎える。その後バーグマンは堂々とアメリカに帰り、フラッシュを再度浴びるのだ。何という人生だろう。ジャーナリストが空港で、何か後悔している事があるかと尋ねた時の、彼女の答えがふるっている。「いいえ、やらなかったことのほうが後悔するわ」心底ステキな女性だ。とにかく彼女は役者としての成長を求め続けた。やらなかったことのほうが後悔するのだ。見習うことが多い。

 

映画の内容は書くまい。ネタバレになるからだが、三十年代から七十年代にかけての映画のシーンで、煙草を吸う男女がやたらと出てくる。イタリア時代のバーグマンの廻りの男達も、ロッセリーニを含め、煙草をたしなむ者が多かった。しかも、彼女が恋に落ちたロバート・キャパも、くわえ煙草か、もしくは手に煙草を持っているシーンが多い。なんということだ。時代がそうだったということは私にもよく分かる。子供の頃、父親の同僚が当時住んでいた狭い団地に5〜6人で来たときに、部屋の中がモクモクになった覚えがある。皆吸っていたのだ。煙草は大人である象徴であった。労働の慰めでもあった。畢竟戦地で世界をのけぞらせる写真を撮るなどという芸当以上のことをしていたキャパが、なんらかの慰めを求めないはずがない。バーグマンとはいつでも会える仲でもなかった。遠い戦地から、あのバーグマンを思いながらの一服は、どんな味がしたのだろうか。せつなかったに違いない。こういう心情が共感できるところは、初手からの非喫煙者には感じることのできないものであろう。喫煙していたから分かること、禁煙したから分かること、両方知っていて文化的ではないかと、自分自身に思いこませないと、損なことばかりに目が行ってどうしようもなくなる。実際に、身体的に損なことばかりであることは医師に教えられたが、少なくとも文化を理解するという意味で、喫煙は損なことばかりではなかったと思うしかない。キャパの心情に喫煙者であったという体験から共感できるからだ。そうでも思わないとやっていられない。

 

薬の作用は副作用だけではないらしく、それらの喫煙シーンを観ていても吸いたくならなかった。また、長時間「喫煙」から遠ざかる、映画鑑賞、という行い自体が、我が身にとって非常に楽になったことも特記すべきことだろう。私は少なくとも一秒一秒、喫煙から遠ざかっている。キャパの心情をおもんばかりながら。私が煙草に手を出した理由は前の日記に記したとおりだ。だがキャパとは動機と行動のケタが違いすぎる。キャパは多分、くわえ煙草のまま地雷を踏んだのだろう。男の中の男である。私も男の端くれでいたいが、キャパの「うつわ」にはかなわない。地雷を踏むにもまだ早いと思いたい。こう考えれば、喫煙とはとりあえず卒業せざるをえない。キャパよ、さようなら。

 

ネタバレの一部かもしれないが、映画の中の男達が、ほとんど全て喫煙者であった。ハリウッドもイタリアもスエーデンも喫煙者だらけで、ただ一人、煙草をくわえたシーンが一つもないのがバーグマンその人だった。「ガス燈」でシャルル・ボワイエ相手に煙草を吸っていたシーンがあった覚えがあるが、たとえそれが事実だとしても、演技の上であって、喫煙者には見えない。バーグマンは禁煙中の私にさえ永久のアイドルでいてくれる。

 

しかしボギーよ、男はつらいなあ。