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禁煙日記11

禁煙日記11

何も手が付かない。これも副作用であろうか。気分の上がり下がりが激しい。喫煙欲は以前より減ったものの、やはり禁煙は所作であったとつくづく思う。ピアノを弾いて少し疲れたときにする事がない。今は氷水を飲んでいるが、紫煙をくゆらせていた頃の自分がまったく別人に思えてきた。いったいどれくらいの無駄な時間を過ごしてしまったのだろうか。だがここまで来ても、なんともいえない物足りなさが身体の奧に渦巻いている。

どうにもならない気分でいたら、妻が洋裁の先生に横浜で会うという。このまま一人家に居ても何もはかどりそうになかったので、妻に同行することにした。

横浜駅で降りるのは久しぶりである。横浜で仕事といっても、馬車道や、みなとみらいの方が多い。洋裁の先生は年配の可愛げのあるおばさまである。妻に紹介され挨拶を交わす。ああ、私は本当に交友関係という意味において、一般人との接触は無いのだなと、このおばさまにお会いしてつくづくとそう思った。ミュージシャン、クラブオーナー、ライブハウスの方々、ジャズ好きな面白い人、他の友人も美術関係、プー太郎、それ以外に私には身近な者はいない。 

本当に普通の人なのである。妻とは何十年来の知り合いとかで、旦那である私がどういう人物であるか、興味津々の様子を隠そうともしない。この方は、コルトレーンもビル・エヴァンスも、電化した後のマイルスはジャズではない云々など、かけらも聞いたことも考えたこともないだろう。私は無理に作り笑いを浮かべ、無理に世間話に相槌をうっていたりしたが、以前の私なら、ここで一服するのが自分自身をリラックスさせる「所作」であった。今はそれをするわけにはいかない。薬の副作用で、三人で入ったデパートの喫茶店でも、灯りが目にちかちかして困る。しかも以前は、こういう所に着座すること、即一本だったのだが、今の私にはそれが許されていない。しかも妙な笑顔を絶やすわけにもいかず、私の頭は段々混乱を来し、その初対面の洋裁の先生に向かって、気が付いたらべらべらと喋りはじめていた。

「どうもはじめまして。旦那です。こんな人が、と思われたでしょうが、こんな人なんです」

「あ〜ら、面白い方ね。こんな面白い旦那さんと暮らせて、あなたも幸せそうで良かったじゃない」妻は微妙な薄笑いを浮かべながら、片目で私を、もう一方の目で先生の方を見ていて無言だ。喫煙欲求を忘れるため、私は喋り続けた。

「先生のご出身はどちらですか?ああ、鹿児島でいらっしゃる。そこで妻と会われたんですね。えっ、小さな頃から知っている?それは私より妻とは長いということですね。先生も隅に置けない方だ。私より妻のことを知っているなんて」

「あ〜ら、また面白いことをおっしゃる旦那様、本当に退屈しないご家庭をお持ちのようねえ。良かったじゃないの。こんな面白い方と一緒になる事ができて」

「家は面白いですよ。何しろ私が旦那ですからね。何をしでかすか分かりはしないような人間ですから。鹿児島にもツアーでいったことがあります。あそこら辺は、熊本も含めて、妻の前ですがね、よっ、先生のような美人が多い。あっちで街を歩いていると、きれいな女の人ばかりで、目移りがしちゃって、首がぐるぐるして、最後は首が痛くなっちゃったんですよ」

「あ〜ら、おほほほほ」

「それでですね、天文館という繁華街を演奏の後、深夜歩いていたら、急に蝶ネクタイの若者に羽交い締めにされまして、九大の学生シャン!と呼ばれつつピンサロに無理矢理つれて行かれましてね」

「あ〜ら、おほほほほ、それでどうなさったんですか」

「こちらはカネなんか無いぞ、といっているのにもかかわらず、酒はじゃんじゃん出てくるは、女の子はじゃんじゃん出てくるはで、しょうがないから、遊び倒しましてね。先生、だってしょうがないんですよ。入り口に怖いお兄さんが立ってるンですよ」

「ま〜あ。お〜ほほほ。それでどうなさったの」

「まあ、帰ることになりましてね、財布から千円札出して、これしかカネは無いっていってそのお兄さんにたたきつけたんですよ。モンクがあるなら警察呼べってね。いやあ、向こうも違法なことしてるから、桜田門は呼びたくないという計算がこちらにもありましてね。まあ酔ってましたしね、どうにでもなれと」

「まあ、お〜ほほほほ。それからどうなさったの」

「ええ、一悶着ありましたがね。無いものは無いで無理矢理外に出て、走って逃げました」 

「ま〜あ、お〜ほほほほ、逞しいご亭主をみつけられて良かったじゃないのあなた、ねえ」

「ヒロシさん、少し声が大きいわよ」

「あ、すいません。私は煙草もすいません。酒も飲みません。でも九州の方は酒が強いですからねえ。ビールは酒じゃなか、とかいわれまして、朝から飲まされたり、昼から焼酎でまいりました。向こうは男気のある男性ばかりで、いい土地だ」

「お〜ほほほ、ほんとに面白い旦那様だこと。あなた、よかったじゃないの、こんな面白い方と暮らせるなんて。それよりお食事は?なにかお食べになるかしら」

「いやあ、お食事なんて久しぶりだ、普段食べているのはメシですからね。これがメニューか。高いなー、オムライスが1500円以上する。ははははは。これは高すぎる。一番安いものは何だろう。あ、私はお子様ランチでいいです。これが一番安い」

「ヒロシさん、高いと何度も言ったらここに連れてきた先生が困るでしょ」

「いや、私はね、本当にお子様ランチが好きなんですよ。この旗がね。昔を思い出させる」

「お〜ほほほ。面白い旦那様ねえ。本当にあなたは幸せ者だわ」

帰りの電車の中で、妻がうつらうつらし始めたので、心の中で謝りました。

禁煙日記続けます。