禁煙日記15

 

禁煙日記15

重複しますが、酒煙草をやらずして、重篤な病におかされる方もいらっしゃることを承知で書いております。ご笑覧下さい。

 

今朝、私はなにやら脳みそがずれたような感覚に襲われ、やる気と倦怠感が三十秒ごとに入れ替わる感覚にも苛まれ、いても立ってもいられなくなり、寓居からすぐのところにある禁煙外来に行くこととにした。こういう時の為に歩いてすぐの場所に禁煙外来を探しておいたのである。チャンピックスの副作用であろう。

 

担当医は以前の先生とは違ったが、優しく接して下さった。医師は、私の今までの生活状態、前回のデータ、今の私の状況を見て、少なくとも今日一日だけは休む事が先決という診断をくだした。私には今晩演奏の仕事があると説明すると、では、あなたの社会生活は大切な事柄だから、演奏前までは何もせず、充分休むことと再度言いわたされた。脳には活動する脳、休むための脳があり、それがうまく機能していないため、私は疲弊しているそうだ。薬の副作用のみならず、だからこその不眠であり、倦怠感なのである。思い当たることは多々ある。頭に渦巻く数々の、浮いては消える異形なる思いも、脳が疲弊、疲労している証拠で、それを放置することが必要だとも教わる。それによって曲を書こうとか、振り払おうと無理をせず、その状態を楽しめるようにすることが快復への早道である。それらのことを鳥の目で俯瞰するようにして、やりすごすしかないそうだ。しかしこれは禅のお坊さんの境地ではないか。

 

医師の説明は続く。これは備忘録でもある。脳を喫煙以外でも休ませる方法が必ずあること、その状態になる方法を喫煙以外に探すことが大切であること、なにも手に付かなければ一旦休むこと、リラックスするための脳をどう働かせるかが大切であること。私は、書くという動作だけ、何故だかどんなに疲弊していてもしてしまうと説明すると、医師は、書くことが一つの休みとなり、今苦しんでいる症状を救う手立てであるとあなたが思うのならば、そこは逃げ道の一つであるという。しかし、書くことはブルーライトを浴びながら、頭を働かせることなのではないかと質問すると、それでも書くことが一つの休みになるという。書くことに逃げても良い。眠ることも眠るという状態に脳が逃げていると考えてもいい。機械オンチであるにもかかわらずFBに禁煙日記を記し、世間に喧伝することで、禁煙せざるをえない状態に自分をもっていった事を説明すると、「う〜んうん、酒煙草に比べれば、ブルーライトの害など、世間では騒ぎますが、ごくわずかですよ。一つのことが全て丸く収まることはないのです。この世はオーダーメードで出来ていないのですよ。機械に妥協しましょう。書いてみてはどうでしょう。焦らずに一つ一つ自分を楽にしてやることが大切です」

 

医師の言うとおりである。私は無意識のうちに自分を救う手段を見つけ、書くことによって自分を救ってきたようだ。やはり書くことが禁煙の症状からの脱却であったのだ。

 

家に帰り、私は医師に言われたとおり、今夜行われる下北沢アポロでの演奏まで、普段演奏前にやっていること、指慣らしの練習、その他の「しなければいけないこと」を全て放置し、カウチに横になった。頭の中がぼんやりしていそうで、しかし突然表出する過去の異形なる思いが、再度走馬燈のように駆け巡る。きたぞ。さて、医師の言うとおりにするならば、私は修行していなくとも、修行したことに自分を無理矢理ねじふせて、私は禅を習得したと思いこむしかない。しかし、司馬遼太郎氏の文章に、禅を習得できるのは何万人に一人であると書いてあった覚えがある。だが今は、その何万人の一人が自分だと思いこまなければこの場を凌げない。

 

そうだ、一休宗純を真似れば良いのだ。一休さんだ。以前本で読んだことがある。臨済宗だから禅宗である。本は売ってしまい手元にないが、とにかくミュージシャンよりファンキーなお坊さんがいると思った記憶がある。禅僧になるのは大変な修行が必要だが、一休さんのような破戒僧を参考にすれば良いのではないか。僧であるにもかかわらず、何度も自殺を試みたり、カラスの声を聞いて大悟したりしたことまでは覚えていたが、ウイキペディアによると、男色、肉食、飲酒や女犯を行いとある。更にいろいろと調べてみると、当時はカネで高僧の地位を買えたとも書いてあった。一休さんはそれにケツをまくったのである。「釈迦といふ いたずらものが世にいでて おほくの人をまよわすかな」という句も残している。一休さんの言葉には、私の感性にぴたりと合う親近感を感じる。釈迦を知り尽くした人の言葉であることも忘れまい。頓知とはユーモアにも繋がる。この頓知で副作用を上手に抑え込めないだろうか。

 

私の好きなサイトに、「世界恩人墓巡礼」というものがあり、ここにも一休さんの事が記してあった。一休さんは他界する直前に、「どうしても手に負えない深刻な事態が起こったらこの手紙を開けよ」と弟子達に手紙を残した。後年、弟子達に重大な問題が起こり、恐る恐る手紙を開封してみると、「大丈夫、心配するな、なんとかなる」と書いてあったとのこと。わはははは。この人は昔気質のミュージシャンに似ている。しかも最高の解答でもある。そして今の私にとって最も必要な気質をこの一休さんという方は放たれている。すばらしい。

 

更に調べを深めてゆくうちに、私はもっと一休さんのことを知る必要があることが分かってきた。このお方の感性は、僧である以上に、ある意味ジャズメンに似ている。しかも当時の平均寿命を優に二倍超えた八十八歳まで生き続け、僧であるにもかかわらず、臨終の言葉が「死にとうない」であったという。規格外の存在だ。他にもすばらしい言葉ばかりを後世に残している。早速、水上勉著、「一休」をアマゾンにて買い求めた。

 

さあ、大丈夫、心配するな、なんとかなる、アポロでダーンといい演奏をしよう。

 

禁煙日記続けます。

 

 

 

 

 

禁煙日記14

禁煙日記14

重複しますが、酒煙草をやらずして重篤な病におかされる方が数多くいらっしゃることを承知の上で書かせていただきます。

 

煙草無しの日常に慣れるには、ある一定の期間が必要なようだ。昨夜は気分が楽であったのに、今日の午後は身体が妙にだるく、以前の私なら、ここで一服であったが、喫煙は倦怠感を増す作用があることを医師から教わった。もう充分である。私は精神的にも、肉体的にも、自分なりに限界に挑戦してきたつもりだ。確かに、身体の声だけ聞いていれば親不孝者ではなかったであろう。しかし、生き残れたのかと逆に考えれば、生き残れなかったと思う。身体を限界以上に酷使して、やらなければいけなかった事の何と多かったことか。精神的にも肉体的にも歯を食いしばらざるをえない時々が、生きていれば誰にでもあるはずだ。私はそこで喫煙に安寧を求めた。確かに煙草は、親友であった。どんなときでも一緒であった。裏切ることも無い。しかし、種を明かせば一番のカネ食い虫であり、後ろにスペードのジョーカーを隠し持っている、へらへら笑いの悪友だった。私は危機回避感覚が鋭い方だが、その私を、後ろ手にスペードのジョーカーを持ち、満面の笑顔で付き合ってきたこの親友は、相当なタマだ。こいつは本当に悪の手先としか言いようがない。ツンデレで○×型の、○×座の女性より、凶悪に危険な存在だ。そのような女性と関わってはダメだと分かりつつ、そのツンデレの可愛さにほだされて、振り回され、いくらの授業料を払ったかしれない。煙草も同じ事である。そして、悪友とて友人である。お別れのしかたがあるはずだ。じゃあね、ですっぱりさよならするか、とくとくと説得しながら、逆に相手を納得させて別れる方法がよいのか。

 

悪女に関わったときと似ている。別れ方も似ていなくもない。相違点は、女の人は気が変われば、ふいとどこかに消えていってしまうことだ。あの変わり身の早さはお見事というしかない。こちらがあっと声を出す間もなく、あれだけしつこかった女性がいなくなる瞬間は、グルーヴしているといっても良いだろう。しかし煙草という悪友は、悪女よりも手強いしタチが悪い。人間として存在しないからだ。唯々私の身体と脳に寄宿している、居候よりタチの悪いへらへら笑いのスペードのジョーカー持ち。

 

まったく新しい別れの方法を、自分自身で探さなくてはならない。だが、その探している自分の中に、探さなくてもいいよ、という声が混ざってくるのが厄介なところである。これは強敵だ。

 

私にとって、生きているということ自体を救ってきたのは何か。音楽しかなかった。そして音楽をやってきたことによって出会ってきた数多の人達。いろいろな人がいた。本物の舶来ピアノを聴かせてくれた宅考二先生、ジャズピアノの大師匠、早稲田大学ダンモ研に入って出会った数々の友人、銀座のナイトクラブのバンマスや、そのまわりに群生していた有象無象の訳の分からない、だが魅力的だった人達、ピットイン朝の部で一緒に涙にくれたベースの彼、アメリカの学校で知り合った世界中のミュージシャン達、私のような者にも紳士的にピアノを教えてくれた、Mr. Steve Kuhn,日本に帰ってきてから出会った数々の仲間達、コペンハーゲンデンマーク北欧ジャズシーンを紹介してくれたトランペッタ−、キャスパー・トランバーグ、これらの出会い無くして今の私は存在しない。全てが音楽の導きである。そうだ、私の一番大切な、親友以上の存在、それは私の音楽だ。その邪魔をする者はやはり切らねばなるまい。私は無情になる事がある意味下手である。しかし、早々にお引き取り願おう。音楽が私を救い、多分私の音楽が誰かを少し救ってきたのかもしれない。世界中に音楽を通して友人もできた。これだけでも素晴らしいことではないのか。小、中学校とどうしようもない劣等生であった私としては、音楽のおかげで上出来な人生を歩んできたのではないのか。Mr. Kuhnに習っているとき、どうしたらピアノが上手くなるかという、愚にも付かない質問を拙い英語で聞いた時の答えが忘れられない。「Use your body just like a shrine」おまえの身体を祭壇のように扱え、直訳すればそうなる。その時は、私の質問の趣旨から離れた何か哲学的な言葉に聞こえたのだが、今思えば、Mr.Kuhnの仰るとおりだった。煙草は肺気腫動脈硬化から来る認知症を引き起こす。身体がおかしくなったらピアノが上手くなるもへったくれもない。Mr .kuhnの言葉は正鵠を射ていた。Mr.Kuhnはセロニアス・モンクが亡くなったというニュースを見たその日から煙草を止めたと言っていた。きっかけなんて人それぞれで良い。止め方も人それぞれだろう。私は止めてから何日と数えるのを止めた。吸いたいときに吸わなければいいだけだ。勝手に時間は前に進む。

 

別の自分に出会うとはまごつくことばかりだが、真の意味での自分一人、自分自身になれる良い機会だ。

 

スペードのジョーカーの色は、ニコチンタールと同じ黒色である。

 

 

 

 

 

 

 

禁煙日記13

禁煙日記13

タバコをやめて良かったと思うこと、それは外出する際に火の用心を気にしなくて良いことだ。喫煙していた頃は、出がけに灰皿を台所の流しに持って行き、中に少量の水を蛇口から垂らすのが習慣になっていた。これも一つの所作であり、無駄な日常の動作が一つ無くなったことになる。禁煙をすると、このように、喫煙という所作を忘れる必要と、無駄な所作を省くことが日常の中に交錯してくるのである。また、煙草を買いに行かなくなったので、コンヴィニエンスストアーに行く回数が減り、煙草のついでに買っていた余計なものを買わなくなったので、無駄づかいが減った。一時期、コンヴィニエンスに行くのも怖かった時期がある。私は煙草の常客で、コンヴィニエンスのドアを半分開けた時点で、馴染みの店員が、私の好みの煙草に手を伸ばしつつ、「いらっしゃいませえい」と声をかけてくることが常態化していたのである。おいそれとコンヴィニエンスに近寄れなくなった理由はお分かり頂けると思う。

 

かといって、いちいち店員に、私は禁煙しています。とわざわざ進言するのもおかしな話で、生活必需品は、煙草の置いていない場所で買おうと思ったら、結構スーパーマーケットなどにも売っており、今迄スーパーで煙草を買わなかったので知らなかっただけで、この世の中には、どこもかしこも煙草というものが根を生やしていることがわかった。あとは自分から近付かないようにするしかない。こんなに恐ろしく思っているものを、無意識に身体が欲しているというのも、自業自得ではあるが、何とも言えない複雑な心境だ。

 

禁煙しながら、前と同じ状態で走り続けるのは、まったく新しい経験である。薬の副作用があるにもかかわらず五感が更に冴えわたり、直感も更に鋭くなっている。考えること、感じることも全て新しい。と同時に、それを受容する身体が時々その情報の多さに戸惑うときがある。そして戸惑ったときには文章を書く。頭の中が整理され、何を感じているのかがはっきりする。

 

吉田兼好さえ田畑を持っていたからこそ隠遁できたそうであるから、私の場合は、自分との相談の上少しずつ焦らずに前に進むしかない。

 

プールの時間だ。

 

 

 

禁煙日記12

禁煙日記13

この日記を書き始めて、何人かの方から、応援の声を頂いている。また、私の文章を読んで禁煙に踏み切った方が二人いらっしゃる。書き続ける必要がありそうだと勝手に判断して、書き続けます。酒煙草をやらずして、重篤な病におかされる方も世の中にいらっしゃることを重々承知の上で書きます。とにかく、書いている間、ピアノを弾いている間は喫煙のことを忘れられる。

 

だが、今日の私は動けない。昨日長く泳ぎすぎたのか、副作用なのか、睡眠不足で朝から眠く、プールにも行けず、頭の中がぐるぐるする。過去に起きた様々な出来事、思い出が、何の脈絡もなく意識に去来し、そしてそれがすーっと消えると、また別の思い出や過去の出来事が、意識の中にランダムに浮かび上がってくる。その思い出や出来事の、嬉しかったこと、悲しかったことに関係なく浮かび上がってくること自体が、不思議と一番タチの悪いところで、なぜならば、悲しんでよいのか、喜んでよいのか、どういう感情でその「ぐるぐる」を受け止めれば自己を保てるのかが分からないのである。笑いながら泣く人は見たことはあるが、そういう顔の表情にでるような感情でもない。これでは練習に支障をきたすのだが、今は禁煙することの方が専決事項なので、じっと自分を客観視する。直感、五感とも更に冴え渡ってきているのだから、ここで禁煙を止めるわけにはいかない。

 

実際に、過日ブタ肉を食べたが、ブタ肉は豚の死肉であることのよく分かる芳香を放っていることを再認識した。なぜ死肉と芳香いう対語を選んだのかというと、死肉と分かりつつ、とても「旨かった」からだ。人間は酷な存在だ。だが旨いものは旨い。それほど私の味覚は敏感になってきている。視覚もそうである。読書が更に新鮮身を帯びてきた。文字から浮かび上がる情感、その人が書いた時の気持ちまで読み取れるようになってきた。臭覚も動物並みにするどくなっている。電車に乗っていると、隣の人の昼食が何だったか大体分かりそうなくらい、体臭に対して過敏となった。そして大切な聴覚、今は更に、オーケストラの内声まで細部に耳をそばだてることができる。畢竟私が自ら弾くピアノの音、ハンマーが弦を鳴らす瞬間までもが、細部まで、更に聞きわけられるようになってきた。

 

直感も冴えてきた。渋谷の街に出ると、全く違う世界に居るように感じられる。喫煙していたときにはイライラとした人ごみも、客観視できるようになった。と同時にこの人ごみ全ての人々が、私を含めて、我々人間の原初の所作、つまり「まぐわい」にて生まれ出てきたのかと思うと、この浮世も不思議な場所であるとつくづく思う。日本人は少なくとも一億二千七百万回の「まぐわい」をしたことになる。ものすごいことだ。これら全ての人々が真の意味で愛の結晶であれと祈りたくなる。

  

だが浮世はそれだけでは済まされない、人間の三大欲を満足させようとチカチカする電子画像、ネオンや看板、元はといえば、全て地球の資源で人間が材料を作りこしらえたもので、これを文化文明というのなら、なんという無駄使いだろう。しかし私もその無駄な文化の中の、微細な部分にかろうじて属している存在である。文化は余剰から生まれる。このように、禁煙により全ての事象の捉え方が変化をしてきており、その変化についていけない自分自身がいる。自分が自分を追いかけているとはこれいかに。

 

身をもてあましていたら、再度妻が救いの手をさしのべてくれた。渋谷文化村にて「イングリッド・バーグマン、愛に生きた女優」を観に行くという。家にいてもなにもはかどりそうもないので、再度妻に同行することにした。

 

イングリッド・バーグマン、私が高校生の時、始めて観た彼女の映画以来、魂の部分から惚れ込んでいる永久のアイドルである。あの品位は誰も及ばない。出演作もほぼ全て観ている。映画上映に合わせ、写真展も開催されていた。どの写真も息を呑むほど美しい。写真の下に説明書きがあり、スウエーデンの幼少期、二歳で母親をなくし、十三歳で父親を亡くし、彼女を引き取った叔母もなくなっている事を始めて知る。美貌の影に孤独があったのだ。あの女優としてのスジの通し方もこの生い立ちと関係があるはずだ。彼女をアメリカに呼んだセルズニックという演出家兼プロデゥーサーは、商業的成功のため、名を改め、少し顔を整形することを考えていたことも知る。恐ろしきなりアメリカ芸能界。バーグマンの美貌にさえ、手を入れるつもりだったとは。

 

カサブランカ撮影時、ハンフリー・ボガードは、バーグマンより五センチ背が低く、有名な最期の別れのシーンで、ボギーは木箱に乗った状態で撮影されたことも知った。まぬけな話である。あのボギーがバーグマンの前で木箱の上に立っていたとは。私は一時、ボギーの煙草の吸い方を真似ていたのだ。カサブランカを何回も観過ぎて自然と真似るようになった。似ないと知るのに時間はかからなかったが、あの男の象徴であるボギーを、体格でかしずかせたバーグマン。これも実力のうちだ。あとは誰もがご存知の、ロッセリーニの一件でハリウッドから干されるのだが、上院議会でもバーグマンの私生活が非難されたのもこの写真展で始めて知った。ただの芸能スキャンダルではない。そしてロッセリーニとの生活も終わりを迎える。その後バーグマンは堂々とアメリカに帰り、フラッシュを再度浴びるのだ。何という人生だろう。ジャーナリストが空港で、何か後悔している事があるかと尋ねた時の、彼女の答えがふるっている。「いいえ、やらなかったことのほうが後悔するわ」心底ステキな女性だ。とにかく彼女は役者としての成長を求め続けた。やらなかったことのほうが後悔するのだ。見習うことが多い。

 

映画の内容は書くまい。ネタバレになるからだが、三十年代から七十年代にかけての映画のシーンで、煙草を吸う男女がやたらと出てくる。イタリア時代のバーグマンの廻りの男達も、ロッセリーニを含め、煙草をたしなむ者が多かった。しかも、彼女が恋に落ちたロバート・キャパも、くわえ煙草か、もしくは手に煙草を持っているシーンが多い。なんということだ。時代がそうだったということは私にもよく分かる。子供の頃、父親の同僚が当時住んでいた狭い団地に5〜6人で来たときに、部屋の中がモクモクになった覚えがある。皆吸っていたのだ。煙草は大人である象徴であった。労働の慰めでもあった。畢竟戦地で世界をのけぞらせる写真を撮るなどという芸当以上のことをしていたキャパが、なんらかの慰めを求めないはずがない。バーグマンとはいつでも会える仲でもなかった。遠い戦地から、あのバーグマンを思いながらの一服は、どんな味がしたのだろうか。せつなかったに違いない。こういう心情が共感できるところは、初手からの非喫煙者には感じることのできないものであろう。喫煙していたから分かること、禁煙したから分かること、両方知っていて文化的ではないかと、自分自身に思いこませないと、損なことばかりに目が行ってどうしようもなくなる。実際に、身体的に損なことばかりであることは医師に教えられたが、少なくとも文化を理解するという意味で、喫煙は損なことばかりではなかったと思うしかない。キャパの心情に喫煙者であったという体験から共感できるからだ。そうでも思わないとやっていられない。

 

薬の作用は副作用だけではないらしく、それらの喫煙シーンを観ていても吸いたくならなかった。また、長時間「喫煙」から遠ざかる、映画鑑賞、という行い自体が、我が身にとって非常に楽になったことも特記すべきことだろう。私は少なくとも一秒一秒、喫煙から遠ざかっている。キャパの心情をおもんばかりながら。私が煙草に手を出した理由は前の日記に記したとおりだ。だがキャパとは動機と行動のケタが違いすぎる。キャパは多分、くわえ煙草のまま地雷を踏んだのだろう。男の中の男である。私も男の端くれでいたいが、キャパの「うつわ」にはかなわない。地雷を踏むにもまだ早いと思いたい。こう考えれば、喫煙とはとりあえず卒業せざるをえない。キャパよ、さようなら。

 

ネタバレの一部かもしれないが、映画の中の男達が、ほとんど全て喫煙者であった。ハリウッドもイタリアもスエーデンも喫煙者だらけで、ただ一人、煙草をくわえたシーンが一つもないのがバーグマンその人だった。「ガス燈」でシャルル・ボワイエ相手に煙草を吸っていたシーンがあった覚えがあるが、たとえそれが事実だとしても、演技の上であって、喫煙者には見えない。バーグマンは禁煙中の私にさえ永久のアイドルでいてくれる。

 

しかしボギーよ、男はつらいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

禁煙日記11

禁煙日記11

何も手が付かない。これも副作用であろうか。気分の上がり下がりが激しい。喫煙欲は以前より減ったものの、やはり禁煙は所作であったとつくづく思う。ピアノを弾いて少し疲れたときにする事がない。今は氷水を飲んでいるが、紫煙をくゆらせていた頃の自分がまったく別人に思えてきた。いったいどれくらいの無駄な時間を過ごしてしまったのだろうか。だがここまで来ても、なんともいえない物足りなさが身体の奧に渦巻いている。

どうにもならない気分でいたら、妻が洋裁の先生に横浜で会うという。このまま一人家に居ても何もはかどりそうになかったので、妻に同行することにした。

横浜駅で降りるのは久しぶりである。横浜で仕事といっても、馬車道や、みなとみらいの方が多い。洋裁の先生は年配の可愛げのあるおばさまである。妻に紹介され挨拶を交わす。ああ、私は本当に交友関係という意味において、一般人との接触は無いのだなと、このおばさまにお会いしてつくづくとそう思った。ミュージシャン、クラブオーナー、ライブハウスの方々、ジャズ好きな面白い人、他の友人も美術関係、プー太郎、それ以外に私には身近な者はいない。 

本当に普通の人なのである。妻とは何十年来の知り合いとかで、旦那である私がどういう人物であるか、興味津々の様子を隠そうともしない。この方は、コルトレーンもビル・エヴァンスも、電化した後のマイルスはジャズではない云々など、かけらも聞いたことも考えたこともないだろう。私は無理に作り笑いを浮かべ、無理に世間話に相槌をうっていたりしたが、以前の私なら、ここで一服するのが自分自身をリラックスさせる「所作」であった。今はそれをするわけにはいかない。薬の副作用で、三人で入ったデパートの喫茶店でも、灯りが目にちかちかして困る。しかも以前は、こういう所に着座すること、即一本だったのだが、今の私にはそれが許されていない。しかも妙な笑顔を絶やすわけにもいかず、私の頭は段々混乱を来し、その初対面の洋裁の先生に向かって、気が付いたらべらべらと喋りはじめていた。

「どうもはじめまして。旦那です。こんな人が、と思われたでしょうが、こんな人なんです」

「あ〜ら、面白い方ね。こんな面白い旦那さんと暮らせて、あなたも幸せそうで良かったじゃない」妻は微妙な薄笑いを浮かべながら、片目で私を、もう一方の目で先生の方を見ていて無言だ。喫煙欲求を忘れるため、私は喋り続けた。

「先生のご出身はどちらですか?ああ、鹿児島でいらっしゃる。そこで妻と会われたんですね。えっ、小さな頃から知っている?それは私より妻とは長いということですね。先生も隅に置けない方だ。私より妻のことを知っているなんて」

「あ〜ら、また面白いことをおっしゃる旦那様、本当に退屈しないご家庭をお持ちのようねえ。良かったじゃないの。こんな面白い方と一緒になる事ができて」

「家は面白いですよ。何しろ私が旦那ですからね。何をしでかすか分かりはしないような人間ですから。鹿児島にもツアーでいったことがあります。あそこら辺は、熊本も含めて、妻の前ですがね、よっ、先生のような美人が多い。あっちで街を歩いていると、きれいな女の人ばかりで、目移りがしちゃって、首がぐるぐるして、最後は首が痛くなっちゃったんですよ」

「あ〜ら、おほほほほ」

「それでですね、天文館という繁華街を演奏の後、深夜歩いていたら、急に蝶ネクタイの若者に羽交い締めにされまして、九大の学生シャン!と呼ばれつつピンサロに無理矢理つれて行かれましてね」

「あ〜ら、おほほほほ、それでどうなさったんですか」

「こちらはカネなんか無いぞ、といっているのにもかかわらず、酒はじゃんじゃん出てくるは、女の子はじゃんじゃん出てくるはで、しょうがないから、遊び倒しましてね。先生、だってしょうがないんですよ。入り口に怖いお兄さんが立ってるンですよ」

「ま〜あ。お〜ほほほ。それでどうなさったの」

「まあ、帰ることになりましてね、財布から千円札出して、これしかカネは無いっていってそのお兄さんにたたきつけたんですよ。モンクがあるなら警察呼べってね。いやあ、向こうも違法なことしてるから、桜田門は呼びたくないという計算がこちらにもありましてね。まあ酔ってましたしね、どうにでもなれと」

「まあ、お〜ほほほほ。それからどうなさったの」

「ええ、一悶着ありましたがね。無いものは無いで無理矢理外に出て、走って逃げました」 

「ま〜あ、お〜ほほほほ、逞しいご亭主をみつけられて良かったじゃないのあなた、ねえ」

「ヒロシさん、少し声が大きいわよ」

「あ、すいません。私は煙草もすいません。酒も飲みません。でも九州の方は酒が強いですからねえ。ビールは酒じゃなか、とかいわれまして、朝から飲まされたり、昼から焼酎でまいりました。向こうは男気のある男性ばかりで、いい土地だ」

「お〜ほほほ、ほんとに面白い旦那様だこと。あなた、よかったじゃないの、こんな面白い方と暮らせるなんて。それよりお食事は?なにかお食べになるかしら」

「いやあ、お食事なんて久しぶりだ、普段食べているのはメシですからね。これがメニューか。高いなー、オムライスが1500円以上する。ははははは。これは高すぎる。一番安いものは何だろう。あ、私はお子様ランチでいいです。これが一番安い」

「ヒロシさん、高いと何度も言ったらここに連れてきた先生が困るでしょ」

「いや、私はね、本当にお子様ランチが好きなんですよ。この旗がね。昔を思い出させる」

「お〜ほほほ。面白い旦那様ねえ。本当にあなたは幸せ者だわ」

帰りの電車の中で、妻がうつらうつらし始めたので、心の中で謝りました。

禁煙日記続けます。

 

 

 

禁煙日記10

禁煙日記10

私は岡本工業と仲がよかったのか、子供を作らなかった。子供のいる音楽家は沢山いる。しかし私は、子供を持つことは無理だと思った。ことわっておくが、これは私の考え方である。こんな仕事をしていて子供を持つことは罪であるという意識がまだある。幸せになる事、これが一つの生きていく上での大切な要素だが、全部は得られないのである。素晴らしく幸せな、子だくさんの家庭、経済的心配も無く、仕事も順調、人間関係も良好、病気もなにもしていない。将来も明るい展望のみが開けている。こんな人がいたらお目にかかりたいものだ。もし人類が全てこのような「幸福者」であれば、世の占い師、心療内科、その他の病院、赤提灯、飲み屋、バー、弁護士、哲学そのもの、精神分析、ギャンブル、娯楽施設、もしかしたらスポーツ、音楽さえ、我々人間には必要ないのではないだろうか。超絶北朝鮮のようなものである。だが、彼の国はそれを粧っているだけで、我々人間とて同じである。全部が揃わないからこその世の中であり、だからこそこれらの職業が成り立っている。幸せになること、私の場合は、いままでは音楽を続けることだけだった。それが五十を過ぎてひょんな事から妻帯者となり、妻が煙をいやがっている。三度目の正直を逃すわけにはいかないのだ。

子供を作れば、その子供の将来を最優先しなければならない。私は過去に、上に書いたような家族を、少なくとも見たことがない。親戚の誰かに、人のことは言えないが、必ず変な人がいたり、カネの無心に来たり、逆縁により親が悲しんだり、警官の息子が不良だったり、これらのできごとが浮世そのものであり、もしそうでなければ小説など誰も読みはしないし、作家も文章は書けないし、ネタが無い。

話しが逸れてしまった。禁煙後の私はどう生きていくかである。大袈裟に聞こえるかもしれないが、喫煙とは私にとって、生活の細々としたところに根を張った所作であった。その所作を外すのだから、新たなる何かを念頭に、身体に染みこませないと、副作用にも翻弄される。翻弄されるのは浮世だけで充分である。私は明るい人を尊敬している。性格にも拠るのだろうが、明るい人が前に書いたような条件を満たしている訳では決して無い。必ずどこかで、ご苦労様な事だ、と思わざるをえないなにがしかを抱えているのが人間だ。その上で陽気に振る舞っている人は、陽気であるというだけで大したものだと思う。私は重複するが、若い頃に、普通の人が見聞きしないことを見聞きし、体験しているところがあり、どうも心の底から明るくは成れない。どこかでこの世をはすに見てしまう。しかし、以前苦しんだうつ状態も、行き詰まった時にムチャ飲みした酒も、逆にそれらを手放してしまえば、私なりに明朗な気分で居られることが感じられるようになった。喫煙の影響は、私にとって普通の人のもの以上だったのだろう。何の苦も無く止められる人も居るのであるから。

だが、身についてしまった体験から来る思い癖は容易に変えることはできない。ピアノを弾くという行為と共に、小岩のキャバレーや、銀座のナイトクラブ、ボストン時代、東京に帰ってきてからのすったもんだ、全部を含めて、音楽を通して見聞きしてきたことは、畢竟人間は不思議な生き物だということである。悪魔だと思っていた人が天使となり、この人はいい人だと思っていた人が悪魔となる。

私も人間だから、この条件に当てはまっている。なるべく良い人で在りたいが、私は坊主ではないし、坊主と言えば、父親が言っていた言葉も忘れられない。「祇園さんで毎晩あそんどるんは、ぼんさんやで」もちろん、南直哉氏のような立派なお坊さんも多々いらっしゃる。要するに、玉石混交だ。そう、私はその中の「石」でもいい。終生音楽が続けられ、妻が幸せであれば後は何も望むまい。これも望みすぎと言われれば元も子もないが。望みすぎるからストレスとなる。

さて、プールに行く時間だ。

禁煙日記9

禁煙日記

今朝いつも通り、朝七時前に目が覚めてしまう。チャンピックスを服用する前からのことだが、いずれにせよ、三十代、四十代の頃の私が今の自分を見たら、「ウソだろう、あり得ない」という程の早起きである。更に、チャンピックスには不眠の副作用がある。だが、副作用のみならず、酒を止めたのもその理由であろう。いずれにせよ煙草を止めるに至って、又、更に何かを仕切り直さなければならない。何を仕切り直すのか、朝の頭が冴えている内に考えておくべき大切な事柄である。私はいったいどうなりたいのか。本当は何をしたいのか。

妻は日曜であるためにまだ寝ている。一人部屋で片付けでもすればよいものを、私は何となくカウチに腰掛けて、医師に言われたように少しずつ水を飲んでいる。プールが開くのは九時である。まず泳いでから一日が始まるという生活様式に変えよう。薬の副作用で集中力が落ちる、というよりも、急坂を落ちたり上ったりしているような感覚なので、一見落ち着いているようで、落ち着きが無いのだが、作曲などにも向かっていきたい。しかしやはり夜よりも朝が不安定である。

私はどうも、小学生の頃からある種の刺激、また言動や情動に過敏に反応してしまうよう生まれついてしまったようである。それが音楽に良い影響を及ぼす時もあり、逆に、決定的に世間に対して不器用にしか振る舞えないことも多々あった。そのある種の刺激、人様の言動、情動から身を守るため、ある種の別の刺激物、たとえば煙とか、が必要だった点は否めない。では、私は逞しく無いのだろうか。私の知り合いに、指揮者であり作曲家である尊敬する人物が一人居るが、彼は逞しい。男の中の男、逞しくしかも教養豊か、細かいことはいい意味で気にしないが繊細。生き様が豪快でスマート。そう、彼よりは逞しくは無いだろう。だが、逞しく無い奴が、小岩のキャバレーで、バンマスと花札やって、オジョウズを言いながら生き延びる事ができるであろうか。銀座のナイトクラブの非常階段は修羅場であった。カタギで無い男が本気で怒るとどうなるか、身をもって体験してきた。その怒りが私に向けられそうになったときもあった。ボストンの黒人街でピザを食べていたら、その店に黒人強盗が入ったことがある。ああ、終わったと思った。その強盗、拳銃でカウンター越しに、渡したのは百ドル札であり、釣りは九十九ドルだからよこせと叫んでいる。しかしアメリカは凄いところで、店員がカウンターの下からショットガンを出し、あんたの払ったカネは一ドル札だよ、とぼそっとつぶやいた。そのショットガンは私の方にも向けられていた。私の口からピザがぽろりとこぼれ落ちたのは言うまでもない。その強盗、拳銃とショットガンの威力をおもんばかる理性だけは有ったようで、「Year man, sorry man,I payed one bucks man, yo’re right,haha,thanks man」と言いながらその店を後にした。そう、黒人街のジャズクラブでオルガンを弾いている休憩時間に起きた出来事だ。その後も演奏をしたのだった。これらの事を思い出せば、ある意味どこか逞しく無ければ、私は今ここには居ないのではないか。

(続く)